朝や夕方に、1人1人があそび方を選ぶ形の「自由あそび」の時間もありますが、日中の各クラス年令別保育では、皆んなで同じあそびを一緒にする「集団あそび」を中心にした保育です。(0才保育は別です・・・)豊かな人間的成長ができる――十分な生きる力が養われる――のにふさわしい保育であるためには、例えば「表現あそび」の好きな子と「運動あそび」の好きな子が、どちらのあそびにも一緒に取り組む、そういう機会が豊富である、ことが大切と考えるからです。様々なあそびに、様々な個性を持つ子が、一緒に取り組み、影響し合ったり、協力したり、場合によってはケンカになったりしてこそ、豊かな人間的成長――十分な生きる力――が育っていくと考えます。そうして、学級崩壊や不登校や〝いじめ〟を生じない子どもになると思います。

 
 
 

子どもの自由(精神的自由権)を尊重するという趣旨から、自由あそびを中心にすべ きだという考え方もあるようです。けれども、子どもにとって最も大切なのは、豊かな人間的成長ができるということ(いわば豊かな人間的成長を可能にしてもらうための学習権)のはずです。人生についての自覚も、自己判断するにふさわしい経験も、どちらも極めて未発達の乳幼児に、「あなたがしたいことと、したくないことを、セレクトしなさい」というやり方は、子どものためにほんとうに親切な大人の態度と言える でしょうか?乳幼児が豊かな人間的成長をすることをシッカリ支えるためには、人間学習というか生活経験の機会を、なるべく様々に豊富に提供することが、とっても大切と考えます。子どもの精神的な自由権は、いわばチューリップの球根のように、まだ現実に機能す る力をもつ段階に至っていない、可能性の固まりなのだと思います。やがて芽を出し、大きな葉が伸び、どんなにか美しい花を咲かせてくれるかもしれないけれど、今はまだ 土の中に眠っている、そういうふうに考えるのがふさわしいと思います。すべての子どもに小学校などの普通教育を必須のものとし、そして必修科目を国語・算数・理科・社会さらには図工・音楽とならべる――行きたくなければ行かなくても良いとか、好きな科目だけやれば良いとかはしない――文明国にほぼ共通のやり方も、まだ子どもの段階では、本人のセレクトする権利よりも、豊かな人間的成長のために、様々な分野についての学習や体験が極めて大切と考えるからでしょう。



 

 
 

小学校との連続性に配慮する――いわゆる小1プロブレムのようなことにならないようにする――ためにも、集団あそび(集団活動)を中心にする保育がふさわしいのであって、保育園生活と小学校生活との間に、子どもが乗りこえることの難しいギャップがあるという形になるのは、ふさわしくないはずです。人間は18年も20年もかかって、ようやくどうにか1人前に達する、階段を1歩1歩上がるようにして成長していく生き物であって、野生の生き物とは全く違いますね。生まれてすぐ走れるとか泳げるとか、あるいはチョウチョなら、昨日まで青虫、今日はサナギ、明日からは華麗に宙を舞うことができますが、人間の子は、今日から小学生だから、画期的に変身させようというのは無理でしょう。保育園では何年も自由あそび中心の生活を送って、ある日から非常に形の違う小学校生活に馴染めと言っても、異和感が強くて当然です。45分きざみの教科授業と同じにする必要は全くないけれども、「皆と同じことに取り組むという集団活動に異和感がない」ということは必要であり、とても大切であると思います。




 

 

夕方などの合同保育でも、テレビやビデオは一切利用せず、一緒に歌を唄ったり、紙芝居やゲームのように、子ども同士や保育士と子どもの人間的ふれあいを大切にした保育をします。


 
 

子どもが、自分達の事はなるべく自分たちでできるようになる、という保育も力を入れています。持物の整理や着替えだけじゃなく、午睡用シーツを自分でつけ替える、テーブルやイスを並べることも自分達でするように、と成長していきます。乳児さんが、自然な形で徐々にで良いから、なるべく早目に、オムツからパンツに変わる。0才児が、オマルから、年度後半には喜んでトイレに行くようになる、ということも同様の考え方です。

 

 

 

 

 


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